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本郷中央教会の外観写真

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2021年2月28日 教会学校礼拝 2月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2020年1,2,3月』日本キリスト教団出版局)

  2月 7日 ローマの信徒への手紙 8章38~39節

38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 ローマ書前半(1~8節)の結びの箇所です。イエス・キリストによって示されている神の愛の勝利を高らかに語っています。著者パウロは、現実の困難をよく知っています。しかし、「31神がわたしたちの見方」であり、「34キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」それゆえに、どんな困難に遭っても私たちは神の愛によって勝利を収める、と言います。どのような力が、私たちを神の愛から切り離そうとするか、それは私たちを支配しようとする諸勢力のことだと考えられます。35節でパウロは実際に経験した苦難の数々を述べています。その背後にある諸勢力が、悪霊のように働いて猛威をふるっても、神の愛から私たちを引き離すことはできない、その強い確信を、パウロは与えられているのです。パウロが身を寄せる「神の愛」ほ、観念的、抽象的な力ではありません。「神の愛」は「35キリストの愛」と言い換えられています。私たちも招き入れられています。どんな困難も、この神の愛に勝つことはできません。

 今どんな力が、私たちを神の愛から引き離そうとしているのでしょうか。個人的な困難だけでなく、世界的な異常気象による災害や感染症パンデミックの不安にも思いが及びます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)とあります。この「神の愛」に今こそ身を寄せましょう。「神の愛」は、きっと私たちを支え、困難を乗り越える知恵と力を与えてくださるにちがいありません。

『恵ちゃんの家に男の子が生まれました。恵みちゃんの弟です。そんなある日、はなれて暮らしている、おじいちゃんが急に具合が悪くなって、天国に行ってしまいました。かわいい赤ちゃんの誕生をとても喜んでいたおじいちゃんとは、もう会えなくなってしまいました。恵ちゃんは、毎日めそめそしていました。すると、おばあちゃんが「恵ちゃん、おじいちゃんは赤ちゃんに会えなかったけれど、ずっとみんなのことを見守っているんだよ。おじいちゃんはいつもお祈りをしていたでしょう?おじいちゃんは死んでも、ずっと神さまがおじいちゃんを愛して一緒にいてくださるから心配しないでね」と言って、恵ちゃんを優しく抱きしめてくれました。』

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 2月 14日 ヨハネの黙示録 21章1~4節

3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

 紀元一世紀の終わり頃、教会はローマ皇帝ドミティアヌスによる迫害に遭い、著者ヨハネも迫害を受けて、パトモスと呼ばれる島に捕らわれています。そのヨハネが「天使」によって「イエス・キリストの黙示」を示されます。「黙示」とは「覆っているカバーを取り除ける」と言う意味で、隠されている神の救いの計画が主イエス・キリストによって明らかにされる、ということです。

 この世界は、神の愛の意志によって創造されました。しかし、人が神に背き、悪を行った結果、世界は混乱してしまいました。とはいえ、このまま世界が滅びるわけではありません。主イエス・キリストによって示された神の愛が、必ずや鮮やかに示され、御心が完成するのです。この希望に立って、今の苦難に耐え抜くようにヨハネは渾身の力を込めて語るのです。

 1節「最初の天と最初の海」とは今の現実の世界のことで、古い世界は「去って行く」のだと言います。「海もなくなった」海は、悪によって世界を支配する「獣」が出て来る場所で、混沌の象徴とみなされています。その天と地が新しくされ、新しい世界では3節「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」のです。

 人は、迫害に耐えて信仰を貫き、救いの完成を待ち望む人々のことでしょう。そればかりでなく、3章16節「熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そう」と言われる人々もいます。そういう、神に充分に従い得なくて悔いている人たちも神の祝福にあずかり、4節「涙をぬぐわれる」その時が必ず来る、とヨハネは語ります。

 この希望に立って、教会は困難に耐え抜くのです。黙示録の、そして聖書全体の結びにこうあります。22章20節「主イエスよ、来てください」

『とても大切なものでも見えないものがたくさんあります。空気、音は見えませんね。風も見えません。怖い病気の菌やウイルスも見えません。ところが見えないものでも、私たちは心や身体で感じながら神さまの愛を受け取ることができているのです。神さまは私たちのお祈りを聞いて、悲しい時は慰めてくれたり、ひとり一人の心を守ってくださるのです。「神さまはいつも一緒。悲しむ人の涙をすべてぬぐいとってくださるよ」って、天から大きな声が響いてきた」と書いてあります。とても大切で安心できる言葉です。この神さまのことばが私たちの心にも聞こえてきたら嬉しいですね。』

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  2月 21日 マタイによる福音書 4章1~11節

10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 主イエスは、洗礼を受けてすぐに悪魔の誘惑を受けました。主イエスが悪魔の誘惑を受けることは神の意志でした。悪魔の三つの誘惑はそれぞれに魅力的です。飢えている者にとってパンはどんなにありがたいでしょう。神殿の高い屋根から飛び降りる奇跡が可能なら、教会の伝道活動に有利に働くのではないでしょうか。世界の栄華、つまり名声や権力を手に入れる事は、誰にとっても夢のような話です。この三つの誘惑を、主イエスは聖書の言葉を引用して、悪魔の誘惑に勝利されるのです。創世記3章に、エバが蛇の誘惑に屈したことが記され、その現実が主イエスの勝利によって変わるのです。

 主イエスによって悪魔の支配が終わり、すでに新しい世界が始まっています。主イエスに身を寄せる者は、もはや悪魔の支配の下にあるのではなくて、すでに、主イエス・キリストの恵みの支配の下にあるーそのように、事態が根本的に変わり始めたのです。しかし、いまだ、悪魔の支配がすっかりなくなったのではありません。いまだ、戦いが終結したのではありません。悪魔は、ルカ4章13節「一時イエスを離れた」とあるとおりです。

 主イエスは、「主の祈り」の中で、6章13節「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈ることを教えてくださいました。主は、私たちが、いまだ誘惑に弱い者であることを、よく承知しておられるのです。私たちが誘惑に屈しそうになる時は、主イエスも悪魔の誘惑を受けたこと、そして勝利したことを思い起こしましょう。

 ヘブライ4章15節「この大祭司(主イエスのこと)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」このみ言葉は、私たちにとって大きな慰めです。

『イエスさまは、40日も、何も食べないで神さまにおいのりしていたので、とてもおなかが空いています。そこへ悪魔がきて「あなたが神さまの子どもだったら、この石をパンにかえて食べればいいのに」。イエスさまは「人はパンだけでは生きられません。神さまの言葉で生きるのです。」

 次に、悪魔は神殿のてっぺんにイエスさまを連れてきて「ここから飛び降りてごらん。天使が助けてくれるか見てみよう」と言いました。イエスさまは「神さまをためしてはいけません」と答えました。

 最後に悪魔は言いました。「もし私を拝んだら、この山の上から見えるすべてを全部あげるよ」と。でもイエスさまは言いました。「悪魔よ引き下がれ。私は神さまだけに仕える!」私たちもイエスさまのように言えるといいですね。』

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  2月 28日 マタイによる福音書 12章22~32節

 今日の箇所は、「ベルゼブル論争」と呼ばれています。主イエスが22節で身体の不自由な人を助けたので、人々はみな驚いて、この方は来るべきダビデの子=救い主の称号=メシアではないか、と思いました。しかしファリサイ派の人たちは、主イエスに「神の霊」が働いたことを認めようとしません。彼らは、自分達こそ神の御心を知っていると自負していて、主イエスに敵意を抱いています。24節、そして主イエスに特別の力が働いていることは認めましたが、それは「神の霊」ではなく「悪魔の頭」の力によると判断したのです。26節、主イエスは「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と反論します。そして28節「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」神の恵みの支配が始まっている、と言われたのです。

 そして31~32節「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子(主イエスご自身のこと)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」と、神の恵み深さと同時に、厳しさを語っています。

 聖霊は、今、ここで働く神の霊です。主イエスの赦しに「アーメン」と応えて身を寄せるのは聖霊の力によります。コリントⅠ 12章3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない。」とあるとおりです。

主イエスは、ご自身を否定する者にも赦しの御手を伸べられます。これは信仰の核心です。その主の赦しは、聖霊によって私たちの心に届きます。この聖霊の促しを、どんなに迷いがあっても、素直に、そして思い切って受け止めること。その思いを、心の奥に刻みたいものです。

『イエスさまは、悪い霊に取りつかれて目が見えなくて話すこともできなくなった人を、聖霊の力で目を癒やし、話すこともできるようにしてあげました。すると、それは悪い霊の力だと思って信じない人がいました。

 イエスさまは「神さまが聖霊の働きを見せてくださったのだよ。」「私のすることを信じられない人が多くいるようですが、聖霊の働きを信じてください。私に逆らうことを神さまは赦してくださいますが、聖霊の働きを悪い霊の働きだと言うなんて、神さまとても悲しまれることです」と、はっきり人々に言われました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、わたしもファリサイ派の人のように、かたくなになることがあります。思い切って、素直になれますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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