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2021年3月7日 教会学校礼拝 3月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2020年1,2,3月』日本キリスト教団出版局)

  3月 7日 マタイによる福音書 16章13~28節

 フィリポ・カイサリアは多くの偶像が置かれ、神ならぬ神々が乱立するところです。そこでイエスは13節「人々は人の子のことを(イエスご自身を指す言葉)何者だと言っているか」と問われます。弟子の内、シモン・ペトロは16節「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。それを聞いてイエスは17~18節あなたは幸いだ。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」といわれました。ペトロはイエスの求めておられた答えをしたのです。ところが21節でイエスがご自身の受難と復活を語り始めると、あの模範解答をしたペトロが22節「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。なぜでしょうか?それはペトロたちもまだ、イエス・キリストの十字架の意味を知らなかったからです。

 ペトロはイエスの受難後の出来事を信じないのです。救い主が殺されるなんてことは思いもしなかったのです。旧約聖書には、救い主が助けてくださるととの預言が何度も出てきます。それを慰めにして信じて耐えてきました。イエスが来られたのはローマが栄え、住民登録で数えられ税金を取られ支配、抑圧されることは、神に選ばれた民として屈辱的なことで、それだけ救い主が現れることに大きな期待をかけていたのです。

 イエスに直接、出会っている弟子でさえ、人が求める救い主と、神が遣わしてくださる救い主との間のギャップを受け止めるのは難しかったのです。

『イエスさまが「あなたがたは私を誰だと思っているのですか?」と聞くと、ペトロさんは「あなたは神さまの子です!」と笑顔で答えました。神さまの子どもであるイエスさまと言っt所にいることを嬉しく思っていたのでしょう。ところがイエスさまが「私は私を憎む人から苦しみを受けて殺されて、三日目に復活するんだよ」と話されたので、ペトロさんは驚き「なんてことを仰るのですか。そんなことがあってはなりません」と強く言い返しました。それでイエスさまは、ペトロさんを叱りますが、ご自分の命を失っても、イエスさまは神さまの愛に包まれて天使たちと共に私たちを救うために再び来られると約束なさったのです。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、十字架にかかったイエスさまこそ、私たちの罪を代りに負ってくださった救い主だと信じられるようにしてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  3月 14日 マタイによる福音書 17章1~13節

 イエスがご自分の十字架と復活を予告されてから六日目のこと。イエスはしばしば祈るために登られます。この日、三人の弟子を連れていかれ、弟子たちの前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝いたのです(2節)。イエスの神の子としての本性が輝き、そこに旧約の律法を代表するモーセとエリヤが現れて語り合います。それはイエスが旧約聖書で証言された救い主であり、その働きを担っておられることを示しています。この栄光に輝く光景を見て、弟子たちは驚き慌てました。でも、畏れるべきことだとというのは分かりました。そんな弟子たちに対して、イエスはここで見たことはご自身が復活するまで話してはいけないと口止めされました。(9節)弟子たちが目の前で起こったこの出来事の意味を本当には理解できなかったからです。

 このことが、イエスの十字架における苦難と復活とを語られた直後の出来事だったことを忘れてはなりません。モイエスがこれから行うことが神の御心に適うものであることを、この栄光の姿は先取りして見せてくれたのです。モーセとエリアとメシア(救い主)であるイエスが語り合うことで旧約聖書に照らしてイエスの御業を見るのです。しかも、5節の「これは私の愛する子…」との神自らの言葉は、イエスが洗礼を受けられた直後に聞こえてきたのと同じ言葉です。 イエスが神の子であるとの宣言です。神は御子を遣わして救いの業を完成させられます。これ以上に輝かしいことはありません。

 私たちの日常は不思議なことであふれています。でも、それを正しく受け止めるのは難しいのです。私たちは自分の常識やこれまでの経験に縛られているからです。私たちを縛っているものから解き放たれて、神さまが私たちに示されるものを正しく受け止めたいものです。そして、イエスを通して示された神の愛を語る機会を得たいと願います。

『イエスさまは、弟子のペテロさん、ヤコブさん、ヨハネさんを連れて高い山に登られました。すると、とっても不思議なことが起こったのです。イエスさまの姿が変わってしまったのです。どんなふうにかわったかって?イエスさまお顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなってしまったのです。さらに突然、大昔に神さまに仕えたモーセさんと、エリヤさんが現れました。イエスさまとモーセさんとエリヤさんが話し合っていると、光輝く雲が三人を隠し、「すべてイエスさまに聞きなさい」と言う声がひびきました。イエスさまはお弟子さんに「恐れることはありません」と仰り、「今見たことは私が復活するまで誰にも言ってはいけません」と命じられました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちは見た目で判断したがります。でも、本当に大切なことは目に見えません。このことを忘れずにイエスさまについていけますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  3月 21日 マタイによる福音書 20章20~28節

 イエスと旅を続けた十二弟子の中に兄弟が二組いました。アンデレとペトロ、そしてヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネ兄弟の母親はイエスに21節「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れると仰ってください」と、イエスに地位を約束して欲しがります。イエスについて来た多くの人たちは、イエスが王様になって、ローマ帝国からみんなを助ける。ローマを打ち破ることを夢見ていたのです。イエスは22節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」23節「わたしの決めることではない」と退けられました。

 この話をきいた他の弟子たちは腹を立てますが、この二人がイエスを理解していないと腹を立てたのではありません。自分たちを出し抜こうとしたことを怒っているのです。イエスの十字架と復活の予告を聞いてもなお、弟子たちはまだこの世的な出世を夢見ていたこと、誰が上かを競い合っていたことが分かります。そんな弟子たちの価値観とは全く反対のことをイエスは言われます。26節~27節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と。その最たるものが十字架です。

 悪いことをした見せしめとして、罰せられ、殺されるのです。十字架にかかるということは、苦しく惨めで、最低の人間としてのレッテルを貼られるということです。その道を自ら歩もうとするイエスは、この世の価値観に振り回され、偉さを競い合う弟子たちの姿をどう思われたでしょう。人に仕える生き方こそ神が望んでおられることだと示すために、十字架を避けて通れないとの決意を新たにされたのではないでしょうか。私たちは人から認められたいと思います。でも、人から偉いと認められることなく、誰かのために一生懸命何かをしようとすることを神さまは喜んでくださいます。誰が見ていなくても神さまは見ておられます。

『ある家にたくさんの子どもたちが来て大きな部屋で遊んでいます。奥の部屋には立派な椅子が見えます。あるお母さんが言いました「ご主人様、私の二人の息子を、あの立派な椅子に座れるようにしてくれませんか?。」ご主人はきびしく、こう言いました。「あなたの子ども達は私と同じことができますか?あの椅子には、お友だちをいちばん大切にできる人しか座れません。あの椅子に座って偉くなって欲しいとか、いちばん良いものを自分の手に入れたいと思うことは、神さまを悲しませます。」と言いました。心から人を大切にできることこそ、神さまが喜んで下さることなんですね。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、人から認められることではなく、神さまが喜ぶことをする人にしてください。みんなのために働くことができるようにしてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  3月 28日 マタイによる福音書 27章32~54節[棕梠の主日礼拝]

 イエスの受けた肉体的な苦しみについてほとんど聖書は語りません。35節「十字架につけると」という言葉に留めています。そこに描かれているのは、イエスを取り巻く人たちです。十字架上のイエスに人々は、40節「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」、42節「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から下りるがいい。そうすれば、信じてやろう」といって十字架から降りてこないイエスをあざけったのです。そして息を引き取られるまでのゴルゴタの丘での出来事がかたられていたのに、突然場面は神殿へと移ります。

 この神殿の垂れ幕は神殿の中でも最も聖なる場所(至聖所)を仕切るカーテンのようなものです。この中に入れる人間は大祭司だけで、入れるのは年に一度の大贖罪日だけと決まっていました。この垂れ幕は、神の領域と人の領域を隔てるものでした。神と人との交流を隔てるもの、それは罪を象徴するものです。それが裂けたということは、取り除かれたということです。それは、イエスの十字架の贖いが実現したことを表します。神さまはイエスの十字架の死によって、私たちの罪を赦してくださったのです。

 自分のしたことの責任を取るのを償いと言います。自分には何の責任もないのに誰かに代わって責任を取ることを贖いと言います。イエスは私たち人間に代わってその罪を負ってくださり、神に罰せられてくださったのです。その罪を負い切った時、神から見捨てられました。46節「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは本当に悲痛です。でもそれは神の贖いが実現したことを表しています。本当は私たちが神に見捨てられるはずだったのを、イエスが代わってくださったことを表しているのです。イエスは罪による隔たりを取り除くために世に来られました。そして、もっとも低いところから私たちを支えて下さいます。それを見て人は、「本当に、この人は神の子だった」と言えるのです。

『とうとうイエスさまが十字架につけられました。十字架が3本立っています。罪を犯した強盗がイエスさまの右と左に一人ずついます。イエスさまは何も悪いことはしていませんでした。たくさんの人々を救い、人々を愛してくださったイエスさまが、お母さんのマリアさんの目の前で十字架につけられています。強盗の一人は、「お前が神さまなら自分を救ってみろ」と言いました。まだお昼なのに突然空が真っ暗になりました。三時ごろのことです。イエスさまは大きな声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、最後にもう一度大声で叫び、息を引き取られました。すると、地震が起こり、岩が裂け、驚くことがたくさん起こりました。人々はとても恐れ「本当に、この人は神の子であった」と言ったのです。

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、イエスさまを十字架にかけるほど、私たちを愛していてくださってありがとうございます。神さまの愛をしっかりうけとめられますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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