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お知らせ

2021年5月30日 教会学校礼拝5月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2021年4,5,6月』 日本キリスト教団出版局)

  5月2日 マタイによる福音書 4章12~17節

 マタイは15~16節で、イザヤ書8章23節~9章1節を引用し、すでにイエスの到来が預言されていることを強調しています。ガリラヤは複数の国家が入れ替わり立ち替わりした土地です。移住や他民族の入植が繰り返されたことで、複数の民族が居住し、人種、宗教、文化が混ざり合っていました。イエスの時代もその要素が強く残っていたとされます。そのガリラヤでの活動は「ユダヤ人」から「異邦人」へという福音の方向性を表すものです。

 16節「暗闇」とは霊や心が暗くなっている状態を指す言葉でもあります。「光」は「救い」を表すものです。暗闇を払う光がイエス・キリストです。17節「悔い改めよ。天の国は近づいた」の「天」は、人間を越えたところにあるものであり、神の支配を表します。またこれは神の独自性と自由も表します。「悔い改め」は、旧約聖書においては、神に背いた者が神へと立ち返ることを表します。洗礼者ヨハネの場合、自らの罪を自覚し、認め、罪から離れることですが、イエスの場合は、罪の赦しという神の救いを得て生きることをも表しています。よって、単なる反省や謝罪とは異なるのです。このように、「悔い改め」とは私たちの生の全体的方向転換であり、神と人との関係を問い直し、再び結ぶことです。特にここでは、まず天の国が近づいたという事実があり、それによって悔い改めを勧めています。救いの現実があり、その救いに対する喜びの行為が悔い改めとなることを示しています。

『イエスさまはガリラヤという場所で神さまのことを伝えました。エルサレムのような大きな町で暮らす人からは、ガリラヤはさみしい場所だと思われていました。でもイエスさまはそういうガリラヤに生きる人を大切にされたのです。

 イエスさまはそのガリラヤで「悔い改め世よ。天の国は近づいた」と言われました。「悔い改める」ってどういうことでしょうか。それは「向きを変える」ということです。どんなに速いバスに乗っても、行き先が間違ったバスにに乗れば行きたい所には着きません。行き先の違うバスに乗ってしまったとき大切なのは、そのバスから降りて正しい行き先のバスに乗り換えることです。

 イエスさまは、神さまに背を向けた道を進む人たちに、「悔い改めよ(向きを変えよ)」と言って、神さまへの道に戻るように呼び掛けてくださいました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちがイエスさまの御言葉でたすけられてうれしかったように、私たちも困っている人を助け、喜びを伝えることができるようにしてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  5月9日 マタイによる福音書 4章18~22節

 ガリラヤ湖は山々に囲まれ、湖を中心とする生活が営まれます。漁師は一般的な職業でした。弟子たちがなぜイエスに従ったのかということは詳細には語られていません。ここで重要なのは、弟子の献身です。

19節「ついて来なさい」という言葉は、弟子になって従う者、属する者になるということを意味しています。つまり、単についていくというのではなく、全人的に従う、イエスに身を任せるということです。これは、漁師たちが、魚をとる漁師という日常から、人間をとる漁師という非日常の存在になるということです。弟子たちの「悔い改め」、反省や謝罪とは異なる、罪の赦しという神の救いを得て生き、生の全体的方向転換です。網を捨てる、さらに舟と22節/父親を残してということは、一切を捨ててイエスに従うことを表し、既存の社会的な人間関係、生活を手放すということです。

ガリラヤ湖は山々に囲まれているため、強い風によって荒れることも珍しくありません。自然と血縁・地縁による関係性が強い社会が形作られます。閉鎖的でありつつ活発な交流があり、新しいものを求めつつも保守的な雰囲気があります。その環境において、弟子たちが自分の家族も仕事も捨ててイエスに従ったということは、それまでの血縁による家族の関係を捨てて、もっと精神的に結びついた強い関係を形作るということです。

血縁関係のつながりは、実際はもろく弱い関係ですが、一方で社会的な制度や思想によって強化され、なかなか断ち切れない関係でもあります。他方、教会で結ぶ関係は、それとはまったく異なる関係です。イエスと弟子たちのように、精神的な深いつながりがある関係です。多くの人は喜びを持って洗礼を受けます。教会に集う関係は、喜びに根ざした関係でもあると思うのです。

『イエスさまはガリラヤ湖のほとりで二人の人を見つけました。漁師の兄弟ペトロとアンデレです。イエスさまは二人に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。するとどうでしょう。ペトロもアンデレも大切な網を捨ててイエスさまに従いました。そこからさらに進むとイエスさまは別の兄弟ヤコブとヨハネにも出会いました。すると二人も大切な舟をそのまま残してイエスさまに従いました。イエスさまは弟子を招かれるとき、テストをなさいませんでした。「あなたは仕事ができるから弟子にします」とは言われません。「役に立ちそうだからついて来なさい」とも言われません。ただ「わたしについて来なさい」と言われます。それがうれしくて、ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、何も持たずに喜んでイエスさまに従いました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちはイエスさまと出会ったうれしい出来事をたくさんの人に聞いて欲しいと思います。この喜びを分け合うことができますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  5月16日 マタイによる福音書 4章23~25節

 この聖書箇所で言及される病人の癒しは、イエスの特別さを強調します。しかし当時は、病気の癒しの奇跡を行ったとされる者が他にもいたようです。したがって癒しの奇跡そのものが、イエスが救い主であることを直接に証明するわけではありません。特にこの箇所で注目すべきことは、癒しの奇跡の前に 23節「御国の福音を述べ伝え」たことが記されていることです。救いにおいて、まずは御言葉(御国の福音)が重大な事柄として置かれているのです。

 また個々の病については、並べられているだけであり、その病名一つひとつに特別な意味が込められているわけではありません。「病」を表す言葉は、弱っている状態や社会的に不健全とされる状態にも用いられます。病名ではなく、「苦しみに悩む者」をイエスが癒したということそのものがここでは重要です。

 病の癒しの奇跡は非常に魅力的な話です。イエスが奇跡を行うことができる特別な存在であることをわかりやすく示すからです。一方で私たちは、このわかりやすさに惑わされてもしまいます。奇跡は、私たちの信仰において十分に神の力を示すものではありますが、私たちの信仰に必ずしも必要なことではありません。信仰は神から与えられるものであり、奇跡があったから信じるということではないはずです。むしろ聖書における「奇跡」は私たちに福音を伝えるための手段です。従って奇跡の場面では必ずと言ってよいほど、私たちにとって重要な御言葉がイエスの口から語られます。奇跡ばかりに気を取られるのではなく、しっかりとそうした御言葉に聞くということを大切に考えたいと思います。

 また「病」という言葉は、弱い状態や不健全な状態にも用いられます。社会的な問題や人間同士の問題も「病」と言い表すことができるのです。イエスによる癒しは、病を癒やす奇跡にとどまらず、そうした広い意味での私たちの命すべてに及ぶものです。「癒しの奇跡」というと子どもたちにとってずいぶんと遠いお話しのようにですが、イエスによる癒しは、前述のように私たちの命すべてに及ぶものです。イエスさまを身近に感じられるものであり、イエスが私たちと共に生きていると感じられるもののはずです。イエスが行った癒しと、「身近な存在を助ける」という単純な行為とを重ねることが、むしろイエスが行った「癒し」を理解しやすくするのではないでしょうか。たとえ奇跡をおこなわなったとしても、私たちはイエスにならうことができます。

『イエスさまはガリラヤで、神さまのお話をされました。イエスさまのお話を聞くと、「神さまのことは前から知っているよ」と言っていた人も、神さまを初めて知ったときのように喜びました。またイエスさまは、「今まで神さまの話など聞いたことがない」という人にもお話をされました。

 昔、病気の人は、周りの人からこんなことを言われました。「お前は神さまを知らないから病気になったんだ」。こう言われると、最初は「そんなことはない」と思っても、言われ続けているうちに「そうなのかなあ」と思うようになります。でもイエスさまは「そうではないよ。神さまと生きる喜びは病気に関係なくみんなのものだよ」ということを教えて下さいました。イエスさまはそのことがわかるようにと病気の人をいやし、神さまの言葉をお教えくださいました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちもイエスさまのように、いろいろな人たちを助けられるように励まし、力を与えてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  5月23日 【聖霊降臨日】使徒言行録 2章1節~11節

 聖霊降臨日は、復活したイエス・キリストが約束された「聖霊による洗礼」の約束が果たされる出来事です。また教会の誕生ともされます。「五旬節」はギリシャ語で「ペンテコステ」です。この集まっていた一同が、十二弟子か「百二十人」かは明らかではありません。「風・炎・現れ」は旧約聖書においては神顕現を示す言葉です。風は霊、舌は言葉を連想させ、「聖霊」は生命の原理・生命力として働くものであり、呼吸や風の中に現れる力でもあります。

この奇跡において多言語で語られるのは「神の偉大な業です。」原始教会の宣教対象がユダヤ人から異邦人へと展開していくことが示されています。

聖書では「水」と「聖霊」の洗礼は別のものとして書かれています。たとえば、使徒言行録に登場するコルネリウスたちは、水による洗礼の前に「聖霊を受けた」ことがはっきりと書かれています。

『復活されたイエスさまは40日の間、弟子たちと一緒に過ごされると、弟子たちの前で天にあげられました。弟子たちは「これからどうしよう」と心配になりました。そこでイエスさまが教えて下さったようにみんなで集まり、おいのりしていたのです。そこに激しい風が吹くような音が聞こえてきました。そして、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまりました。するとどうでしょう。「これからどうしよう」と心配なことばかりを話していた弟子たちが変えられて、神さまを賛美し始めたではありませんか。「イエスさまは目に見えないけど、今も生きてわたしたちと共にいてくださる。」心配ばかりだった弟子たちの心は、力と喜びでいっぱいになりました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、聖霊をくださってありがとうございます。わたしたちも聖霊が与えられたうれしさをいろいろな人に伝えることができますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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  5月30日 【三位一体主日】マタイによる福音書 5章1節~3節

 山上の説教は、イエスが一度に話したものではなく、様々な場所で語られた教えが伝承の過程で収集・編集され、ルカによる福音書の方が元に形に近いとされます。マタイは「言葉から行為へ」進む姿勢重視で記しています。イエスの説教を聞いた「弟子たち」には特別な役割が与えられています。彼らはイエスに代り福音宣教を担う存在であり、イエスに近寄って親しく教えを聞く特権をもつ存在です。3節以降で語られる「幸い」とは、人が自らの力で得るものではなく、神から与えられる祝福として描かれています。その祝福において、ルカは金銭的「貧しい人々」にこそ神の国が与えられ、何かをしなければならないのではなく、無条件に神から与えられる「幸い」を受けているというのです。マタイは「心の貧しい人々」と霊的な貧しさ、自らの至らなさの表現であり、霊的に敬虔であることを表します。イザヤ書61章と対応するように語られています。マタイの書く「幸い」は、自らを誇らず、神の愛を信頼し、神に身を任せる素直さのうちあるものだと思います。人々の謙遜、敬虔な態度の大切さを私たちに伝えます。またルカで描かれる「貧しい」ということの解釈も必要なことと考えます。

『イエスさまはイエスさまは会堂といって、神さまを礼拝する教会のような建物で話したことがありますし、街や村でお話ししたこともあります。これからイエスさまが山の上でお話しくださった大切な教えを学びます。最初の教えは「心の貧しい人々は、幸いである」です。「貧しい」と言うのは「持っていない」と言うことです。「幸い」は「しあわせ」ということです。「えっ?どうして」と思いますよね。イエスさまの言葉はときどきわからないことがあります。でも聞き続けていると、ああそうなんだと解る時が来ます。

「わたしは持っているよ」と自信満々の時、わたしたちは神さまを忘れてしまいます。「わたしは何も持っていない」と気づくとき、神さまが良いものを与えてくださるのがわかるようになります。』

今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちが困っているときにどうかお助け下さい。また、今困っている人、幸せではない人たちを助ける力をください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。アーメン』

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