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お知らせ

2021年6月20日 教会学校礼拝6月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2021年4,5,6月』 日本キリスト教団出版局)

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  6月6日 『山上の説教』マタイによる福音書 5章13節~16節

 「塩」はほんの少量でも十分な効き目があります。聖書の時代の家は一部屋限りでしたから、たったひとつの「光」灯火をつけるだけで家中を照らすことができました。「地」と「世」はこの世界の人々を指しています。つまり私たち、教会に集うこどもたちはたとえ少数であっても、この世を腐敗から守ったり、明るく照らす大事な役割を担っている、ということです。

しかし、塩は食べ物に溶け込んで、その姿を消してしまうことで、役割を果たします。一方、光は隠れてしまっては役割を果たすことができないので、15節『ともし火をともして升の下に置く者はいない』(升は火を消すために用いた)とあります。この相反している様に思えることをイエスさまの言葉が解消します。立派で目立つことをしなさいということではなく。あたえられている光をきちんと輝かせることによって、また時に塩のように自らの姿が消えるように、溶け込むように働くことによって、神さまの栄光が現され、一人でも多くの人が神さまを賛美するようになる。それこそが「地の塩」「世の光」としての働きの目的なのです。そして大事なことは、どちらも断言されていることです。

ヨハネ8章12節でイエスさまはご自身が『わたしは世の光である』と言っておられます。そして『わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』と続きます。イエスさまという光がこの世に来て、十字架によってその命をささげ、その命の光をいただいたことで私たちも「世の光」とされた。その感謝の思いを表す時、堂々と「光を人々の前に輝かせる」ことになるのです。また、私なんて小さい者なのにと自信がなくても『あなたがたは世の塩である』と言い切られる時、そこには小さく弱い存在であるはずの私たちへの、揺るぎない信頼があります。

『山の上で、イエスさまは言われました。「あなたがたは地の塩である」と。そう、ぺろりとなめるとしょっぱい、あの塩です。みなさんはしょっぱい梅干を食べたことがありますか。梅干しがしょっぱいのは塩に漬けてあるからです。すると何か月、何年先でも食べることができます。塩はものを腐らせません。

またイエスさまは「あなたがたは世の光である」と言われました。たとえばキャンプ場の夜、森は真っ暗なので前も後ろも、右も左もわからなくなります。その時、懐中電灯があれば道がわかりますね。光は人の進む道を教えます。

イエスさまに結ばれたわたしたちは地の塩であり、世の光であるとイエスさまは教えて下さいました。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちにあなたの光をくださって、ありがとうございます。助けを必要としている人のところに、この光を届けさせてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。』

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  6月13日 『山上の説教』マタイによる福音書 5章43節~48節

 イエスさまは「殺すな」「姦淫するな」といった旧約聖書の十戒や律法をさらに徹底させ、新しい教えを人々に説かれました。その最後にして最高潮とも言えるのが、「敵を愛しな愛しなさい」との教えです。

43節には「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とありますが、旧約聖書にあるのは「隣人を愛せよ」との教えだけです(レビ記19:18)。この場合の隣人は、基本的には同じ信仰を持つ同胞を意味しています。旧約聖書には、孤児や寡婦、寄留者といった社会的弱者への配慮も見られますが(申命記10:18~19)、そのような人々はいわば「身内」です。こうして「私たち」と「彼ら」の間に線を引く時、どうしても対立が生じます。しかし44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われる時、その愛に限界はありません。45節「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」この言葉は、「正しい人には報酬が、悪い人には罰がある」という単純な応報思想(旧約聖書によく見られる)を完全に否定しています。

子どもたちにとって、敵を愛するとはどういうことでしょうか。喧嘩の相手を敵とは呼ぶことがなくても、様々なことで複雑な思い、心に傷を抱えている時には、敵を愛するという生き方は伝えるには、まず伝える者が祈ることから始め、丁寧に伝えたいと思います。「愛する」ということは、単なる好きという感情や、無理に仲良くすることではなく、「愛そう」とする意志であり決断です。そしてそれは「迫害する者のために祈る」ことから始まるのです。祈りにおいて、私たちは神さまのみ前に何一つかざることなく立ちます。もっとも、心や感情を無視して、無理やり抑え込めばいいわけでもありません。私たちの心の思いも、祈りの中で神さまにお委ねすることが必要です。また、かつて「神さまなんて知らない」と思っていた、いわば「神の敵」であった自分すらも赦すためにイエスさまは十字架につけられてくださいました。

Ⅰヨハ4章19節「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」

『隣人という言葉を知っていますか?隣の人、いっしょにいる人の事です。

イエスさまの周りに集まった人達は、小さい時から「隣人を大切にしましょう」と教えられていました。だからみんな「大切にする隣人て誰のことだろう」と考えて、「そうだ、かぞくのことだ。友だちのことだ。同じ町に住む人のことだ、だからこの人たちは大切にしないといけないんだ。」と思ったのです。

でも反対に、「家族でないなら、友だちでないなら、同じ町の人でないなら隣人ではないよね」と思ってしまいました。そして「大切にしなくてもいい人は敵だ」と言って隣人と敵を分け始めたのです。

そういう人たちにイエスさまは聞かれます。隣人と敵を分けて、隣人だけを大切にするのは、本当に人を愛することですか、と。そして教えられます。すべての人があなたの隣人ですと。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、誰かに傷付けられた時には、神さまの大きな愛の中で休ませ、いやしてください。神さまの愛をいただいて、私もその人のためにいのれますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。』

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  6月20日 『山上の説教』マタイによる福音書 7章1節~5節

 「人を裁くな」「裁く」は法廷用語から来ています。それが日常生活で誰かを責めてしまう時や、私たち皆がいつか神様から受ける、終わりの日の審判の意味でも使われています。イエスさまは「あなたがたも裁かれないようにするためである」とおっしゃいました。自分が人を裁いたために、今度は終わりの日に裁判官である神さまご自身の前にたたされる。 つまり、人を裁くということは、自分が裁判官/神さまの位置に立って判決を下し、宣言するということなのです。私たちの存在も命も、全てを支配しておられるのは、神さまただおひとりだからです。ただ一人の裁き主なる神さまを信じる時、自分が全てを知っており、必ず正しい裁きを下せる裁判官ではないことに気付くのです。その上で、あくまでも最終的な裁きは全て、裁き主なる神さまにお委ねすればよいのです。

私たちが人を裁くのは、もしかしたら「誰かに裁かれる前に裁いてしまおう」という防衛本能の表れかもしれません。でも「私はすでに神さまによって赦されている」この事実としっかり向き合う時、もはや人からの非難を恐れる必要はなくなります。するとだんだん、人の目の中のおが屑が気になる囚われから解放されていくはずです。そして、人を裁くのではなく、赦し合い、和解するという新しい道をイエスさまが与えてくださっていることに気づくことができるのです。

「裁くな」とのイエスさまの命令は、私たちが豊かに生きるため、隣人と共に歩んでいくための、神さまからの恵みのプレゼントなのです。

『ある女の人がイエスさまの頭に、とても良い香りの油を注いでいるのを見て、弟子のユダは言いました。「なぜ無駄遣いをするのか。困っている人のために使ったほうが良いのに」と。でも、ユダは本当に困っている人のために言ったのではありません。

実はユダは弟子たちの中でお財布係りをしていて、みんなに黙って無駄遣いをしてしまったのです。ユダは自分が無駄遣いをしていることが気になっていたので、女の人がしたことも無駄遣いに思えて文句を言ってしまいました。

人のことが気になる時、まず自分のことを考えてみましょう。イエスさまはまっすぐに自分を見る目を与えてくださいます。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、誰かを責めたくなった時には、神様にしかその権利がないこと、私たちもあなたによってゆるされていることを思い出させてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。」

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  6月27日 『山上の説教』マタイによる福音書 7章24節~29節

 「山上の説教」のしめくくりにあたる部分です。数々の教えの最後に、主イエスはダメ押しのように「みことばをきくだけでなく、行うものとなるように」と命じられました。ここでの家を建てた二人の人のたとえはルカ6章47~49節にも平行記事があります。ルカでは「地面を深く掘り下げ」たか否かが焦点で、マタイでは家を建てた場所に焦点が置かれています。これは土台選びがポイントで、ここでの「岩」とはイエス・キリストのことです。(第一コリント10章4節「この岩こそキリストだったのです」)私たちが自分の家をどの土台の上に建てたのかが、「終わりの日」に問われるのです。

「みことばを聞いて行うか否か」と問われるというのは神さまに合格、不合格とチェックされるイメージを持つ必要はありません。それは、わたしたち一人ひとりと人格的な関係性を築いて、私たちの応答を待っておられる主の呼びかけに応えることです。そんなことは無理だと委縮するのではなく、「はい、主よ、感謝してあなたについていきます」と新鮮な驚きのままに応えることができるのです。

『たろうくんは工事現場が好きです。どんな家が建つのかと思って、毎日そこを通ります。でもなかなか家は建ちません。たろうくんは工事をしてる人に「何をしているの」ときくと、その人は教えてくれました。「家を建てる前に杭を打っているんだよ。」その上に家を作ると、地震が来ても台風が来ても倒れない丈夫な家ができるので、地面の中に埋まって見ることは出来なくてもとても大切なのです。

イエスさまは「岩の上に自分の家を建てた」賢い人になるようにと言われました。イエスさまの言葉はわたしたちには見えない土台・杭です。わたしたちがそれに従う時、どんなときにもしっかりと立ち続けることができます。』

 今日はこんなお祈りを…『天のお父さま、私たちが弱くても、神さまにしっかりと守られているから、私たちは嵐の中でも安心していられます。神さまありがとうございます。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。」

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