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お知らせ

2021年7月18日 教会学校礼拝7月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2021年7,8,9月』 日本キリスト教団出版局)

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  7月4日 マルコによる福音書 1章21節~28節

 マルコによる福音書においてイエスさまがなさった最初の奇跡です。それは「汚れた霊に取りつかれた男」の癒しでした。当時の人たちにとって、悪霊の存在はリアルに感じられていました。悪霊にとりつかれるとどうなるのでしょうか。神さまとのつながりや人との関係が絶たれ、幸せな生活がすべて奪われてしまうのです。また、助けようとする人はなく、取りつかれてしまった人はとても深い孤独の中で苦しむことになるのです。この男はイエスさまに24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ」この言葉は「どうかわたしを助けてください。孤独から救ってください」という心からの訴えの裏返しとなっているのです。」それに対するイエスさまの御言葉は25節「黙れ。この人から出て行け」というとても強いものです。これは汚れた霊に取りつかれた男を一人の人間として立たせ、命を吹き込む神の子としての権威に満ちた言葉なのです。この御言葉によって、男は救われ、また、周囲にいた人たちもイエスさまの権威を認め、認識を新たにすることができたのです。

 おそらく、イエスさまが訪れたカファルナウムの会堂にいた人たちにとって、汚れた霊に取りつかれた男は厄介で面倒で、見て見ぬふりをしたくなる人物だったのでしょう。そういう人にレッテルを貼って集団の中から排除する、あるいは存在を無視する、あるいは憎しみを向けるというのは、現代でも形を変えて行われていることではないでしょうか。それはさまざまな差別やいじめの問題にも通じていると思います。そして、私たちはその問題に対して、事なかれ主義の態度を取ってしまうことで、レッテルを貼られた人をさらに追いやってしまうのです。

 そういうことを考えると、イエスさまの御言葉は悪霊に取りつかれた男に対してではなく、私たち自身に突き刺さって来ます。私たち自身の無関心、事なかれ主義が人を追い詰め、苦しめていることにきづかされるからです。イエスさまの持つ権威は、そんな私たちの在り方、考え方を大きく方向転換させる力として迫ってくるのです。その権威を認め、従っていくことで、私たちもまた変えられていくのです。

『イエスさまは会堂に入って、神さまのお話をしていました。聞いていた人たちは、イエスさまがまるで神様がお話ししているように話すので驚きました。そこへ、汚れた霊にとりつかれた人がやって来て「イエス、もうやめてくれ。私たちを滅ぼしてしまうつもりか。お前が神のつかいだということはわかっているのだ」と叫び始めたのです。そうやら、この汚れた霊は、神さまに歯向かう悪魔のようです。でもイエスさまが、「黙れ、この人から出て行け」と命じると、この人にとりついていた汚れた霊は出ていってしまいました。このようすを見ていた人たちは、驚いて口々に言いました。「汚れた霊を追い出してしまうとは、一体この人はどれほどの力を持っているのだろう」こうして、イエスという不思議な力を持った人のうわさが広がっていきました。』

 今日はこんなお祈りを…『イエスさま、あなたの力によって、私たちも正しい道を歩めるようにしてください。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。」

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  7月11日 マルコによる福音書 1章40節~44節

 この「思い皮膚病」を患った人は「汚れている」とみなされ、社会から隔離されたうえ、誰もこの人に近づいてはいけないことになっていました。それはとても残酷で恐ろしいことです。病気にくわえて、人との交わりが絶たれる生活に苦しんでいる、この患者はイエスさまに「清くしてもらいたい」という強い願いを持ってイエスさまの前に進み出たのです。

イエスさまこの人を41節「深く憐れんで」とあります。これを「怒って」と記す聖書写本の断片も存在しますが、イエスさまはこの患者の様子に心を痛めると同時に、この人を助けず、顧みようとしない社会全体に怒りを覚えられたと考える事ができます。

患者はイエスさまに40節(直訳で)「あなたが望まれるなら、私を清くすることがお出来になります。」とイエスさま(をとおして神さまに)に問いかけ、イエスさまは「よろしい。清くなれ」ギリシャ語でセローは「望む」(わたしは望む)と答えを返しています。この「セロー」望むという言葉でつながったとき、この患者は再び本当の命、喜びのある生き方を取り戻すことが出来たのです。

患者の言葉は、不当な扱いを受け虐げられるような境遇に置かれている喜びや希望を奪われたすべての人の声を代弁していると言えます。それに対する「わたしは望む」の答えには、イエスさまも神さまも、人がそのような苦しみの中にとどまることを認めるわけにはいかない、あなたが一人の人間として重荷を背負わずに生きることを心から望んでいるという思いが込められています。この言葉は、イエスさまに招かれたすべての人に与えられているのです。

イエスさまが私たちに先駆けて、一人ひとりがその苦難から解放される道を示し、私たちに癒しを与えてくださいました。そのイエスさまの望まれることをさらに広げていくことが私たちには求められているのです。

「みんなはからだや顔がかゆくなったりヒリヒリしたことはあるかな?蚊に刺されてもかゆくて嫌な気分になるのに、それがひどい病気だったらなおさら落ち込んじゃうよね。昔はそういう病気はその人が何か悪いことをした罰だとか、先祖が悪いことをしたためだと思われていたんだよ。病気で苦しんでいるのに、そのうえ悪者扱いされるのでとても辛かったんだ。

でもイエスさまは同じ思いになってくださり「辛かったね。苦しかったね。でももう大丈夫。清くなれ」と仰って、病気をきれいに消してくださいました。

病気は、なにか悪いことをした罰ではありません。だからイエスさまは「この人は悪い人ではありませんよ」と仰って治してくださったのです。

 『イエスさま、イエスさまが病気の人を癒やしてくださったように、私たちも悩んだり苦しんだりしている人を助けることができますように。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。」

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 マルコによる福音書 634~44節 「5つのパンと2匹の魚」

 イエスさまが集まった人々に教え始められ、気が付くと夕方になっていました。当時はコンビニもなく、簡単に夕食を手に入れることはできません。イエスさまはパンと魚を手に取って祝福して弟子たちに配らせると、みんながおなか一杯に食べることができました。

この食事は皆が垣根を越えてイエスさまを中心にして、共に同じ食卓を囲み、そこに配られるパンと魚は神さまの恵みによって豊かにされる。そんな教会のイメージがここで描かれているのです。

この物語は、四つの福音書すべてに記載されています。イエスさまが起こした奇跡のほとんどは、からだの癒しです。病気、悪霊、はその人にとって大きな問題です。しかし、健康な人には無関係な事柄です。けれども空腹は違います。どんな人でもお腹は空きます。食べなければ最後は死んでしまいます。イエスさまがからだに問題を抱えた人だけに憐みを注がれるのではなく、飢えという誰にでも平等な苦しみにも心を動かされました。だからこそ、この物語は普遍性を持ち、四つの福音書に取り上げられているのだと思います。食べ物は神さまから与えられた恵みのしるしです。それをみんなで分かち合うとき、私たちは心も体も神さまに養われるのです。

「イエスさまのお話を聞きに大勢の人たちが集まって来ました。夢中でお話ししているうちに夕方になってしまいました。気づけばおなかはペコペコ。「もう終わりにして、みんなお家に帰ってもらいましょう」と弟子たちは言いました。するとイエスさまは、「あなたたちが食べ物を用意しなさい」と言われました。「え~無理です。こんなにたくさんの人の食べ物なんてありません。あるのはパンが五つとお魚が2匹だけです。と弟子たちは大慌てです。でもイエスさまは、「それだけあれば十分」とニコニコ。弟子たちに、「ぱんとお魚は心の栄養でもあるのだから、あなたたちがこれを配っておいで」と仰いました。弟子たちは人々を小さなグループに分けて、イエスさまのように心の栄養を配りました。すると、みんなが満腹になって満足したのです。」」

 今日はこんなお祈りを…『神さま、ごはんが食べられない人が日本にも世界にもたくさんいます。その人たちのために何ができるか教えて下さい。このお祈りをイエスさまのお名前を通しておささげいたします。」

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