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本郷中央教会の外観写真

お知らせ

2021年8月22日 教会学校礼拝8月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2021年7,8,9月』 日本キリスト教団出版局)

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 マルコによる福音書 8章27節~30節

主イエスは弟子たちと向き合い、質問をされました。27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」これまでイエスは病気の人々を癒やし、悪霊を追い出し、神の恵みの到来を告げてこられました。ガリラヤ地方のユダヤ人たちはその姿を、旧約聖書に出てくる、神の言葉を人々に伝える預言者と重ね合わせていたようです。弟子たちは28節「洗礼者ヨハネとか、エリヤとか、預言者の一人とか、さまざまに言っています」と答えました。主イエスはそれをお聞きになって、人々はわたしのことをちゃんと理解しているね、とはおっしゃいませんでした。

29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」この二つ目の質問が、主イエスが本当に弟子たちにお聞きになりたかったことでした。他の人たちはそう言っているみたいだが、君たちはどうなのだと、あらためて問われるのです。弟子たちは主イエスの間近でその言葉を聞き、御業を目撃してきました「この方は一体どなたなのだろう」と何度も思い、弟子同士で話し合ってきたはずです。ペトロが代表して自信をもって「あなたはメシアです」、あなたは救いを人々にもたらすメシア、あなたこそ救い主です、と答えました。しかし、これをきいても主イエスは、わたしのことをちゃんと理解しているね、それを多くの人たちに言い広めて欲しい、とはおっしゃいませんでした。逆に「このことは誰にも言わないように」と口止めされました。

「わたしを何者だと言うのか」とは、言葉をかえると「あなたはわたしに何を期待しているのか」ということです。「私たちはどんな救いを期待して教会に集まっているのだろう」と立ち止まって考えなければならないと思います。人は「メシア」「救い主」と聞くと、自分に都合のいいものだけを求めてしまうからです。

福音書では、私たちの罪を担い、人々から見捨てられ、死んでくださるイエス・キリストの姿が書かれ、それは華々しく栄光に満ちた姿ではありません。人が望む繁栄を都合よく与えてくださるメシアではありませんでした。聖書が私たちに伝えている福音は、道を見失った羊を捜して羊飼いが迎えに来た(ルカ15:4~6)という喜びです。神から離れてしまい生きる道を見失った私たちをイエス・キリストが迎えに来てくださり、この方の十字架によって神へと通じる道が開かれたことが示されます。さまざまな人間の期待が渦巻く中にあっても、メシアの導きによって揺らぐことなく神を求めることが大切なのです。神と共に生きる喜びを取り戻してくださったメシアとして主イエスを仰ぎ見ていきましょう。

「昔、日本も戦争をしました。日本でも世界でもたくさんの人々が亡くなったりけがをしました。町も壊されました。戦争に勝つためには、相手を傷付けたり、物を壊したり、相手の大切なものを奪い取ったりします。それを正しいことだと思い込んでしまいます。でも人は、本当は傷つけたくないし、傷付けられたくもありません。もっと大切にしてあげたいし、自分も大切にしてもらいたいのです。みんながお互いを大切に思いあうことがとっても大事なことだと教えて下さったのがイエスさまです。」

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 マルコによる福音書 8章31節~35節

29節「あなたはメシアです」と言った弟子たちは、イエスから31節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、(中略)殺され、三日の後に復活することになっている」と聞かされ驚きました。自分たちを支配するローマ帝国から解放してくれる、イスラエルの英雄ダビデのようなメシアが来ることを期待して待っていたのに、王座に就くのではなく殺される。それは同じユダヤ人の指導者たちによって。驚いたペトロは弟子たちを代表して「そんなことはあってはいけません。」とイエスをわきへお連れしていさめたのです。イエスは33節で神の御心よりも人間の思いを優先されるペトロをお叱りになりました。それこそサタンの業なのです。

そして34節「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいます。でしたちが主いえすから声を掛けられた時、そんなことを考えたでしょうか。神さまがイエスに求めたのは栄光ではなく受難の道でした。メシアの弟子になるということは、メシアの十字架を知り、自分もまた神の計画のために与えられた十字架を担う、ということだとお示しになったのです。

イエスが30節「だれにも話さないように」と口止めされたのはイエスが「栄光のメシア」ではなく「受難のメシア」だからでした。

私たちは、甘い汁を吸うためにキリストに従うのではありません。信仰ゆえの苦しみ、試練があるのです。でも、苦しいだけではありません。信仰の試練の先に、キリストは恵みを確かに用意して下さり、私たちと苦難を共にしてくださるのです。信仰の喜びはそこにあります。

「1945年8月6日、ひろしまに げんしばくだんが おとされました。8月9日には、ながさきに げんしばくだんが おとされました。おおきな ふたつのまちが、わずかふたつのばくだんで めちゃめちゃにこわれ、たくさんの ひとびとが なくなりました。ビルやいえが たちならんでいたまちが やけのはら になってしまい、くさや きも こげて かれてしまったのをみて、もうこのまちは もとにはもどらないと だれもがおもいました。でも、ひろしまも ながさきも、そのごに あたらしいまちに つくりかえられていきました。

 イエスさまは、やがて おおきな くるしみにであい、もうダメだとおもう ときがくる とおっしゃいました。でも、もうダメだとおもうときでも、けっして あきらめてはいけない とも おしえてくださったのです。なぜなら、イエスさまは ふっかつなさるから でした。つまり、いまよりも もっとよいものに つくりかえられると やくそくして くださったのです。」

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 マルコによる福音書 9章2節~8節

 これまで弟子たちが見てきたのは、自分たちと同じ人間の姿で働かれるイエスさまのお姿でした。今日の箇所でペトロ、ヤコブ、ヨハネは初めて、天の栄光に輝く神の子としての主イエスのお姿を見ました。それだけではありません。山の上で主イエスがそこに現れたモーセとエリヤと一緒に語り合っていらっしゃるのです。

旧約聖書に出てくるエリヤは、生きたまま天に上げられた預言者で、主の日が来る時、前もって遣わされると伝えられてきた人です。(マラキ3:23)、またモーセはイスラエル(の人々)をエジプトから脱出させ、約束の地に向かって荒れ野を導いた人です。神さまはやがて「モーセのような預言者を立てる」と約束されました。(申命記18:15)このモーセをエリヤが現れたということは、予言されていた神の救いの約束が今、主イエスを通して実現する時を迎えたということを意味しています。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人は、あまりの不思議さにどうしていいのかわからず、今見ている点の栄光をこの地上にとどめておこうと、仮小屋を建てることを提案するので精一杯でした。すぐに弟子たちは雲に覆われ、その中で神の声を聞きました。7節「これはわたしの愛する子。これに聞け」これこそが、不思議な光の中で弟子たちが学ばなければならないことでした。主イエスこそ神の愛する御子であり、全ての人はこの方の御言葉を聞きながら生きなければならないのです。

六日前に主イエスの受難予告を聞いて悲しんだ弟子たちに、エリヤとモーセと共に語られるイエス・キリストを通して、死を超えた神の栄光を垣間見て「死なない者」へと導き、希望が与えられたのです。この山の上で弟子たちは、どうしていいのか、何を言っていいのかわかりませんでした。イエス・キリストとの出会いとは、この時の弟子たちのように「うまく言葉にできないけれど、確かにキリストが自分に何か見せようとなさっている」というものだと思います。後にペトロはこの山の上で見た光景を教会に書き送り、聖書の予言は正しく実現したことを伝え、この光景は強烈にペトロたちの心に残り宣教の支えとなったのです。

私たちの信仰生活は、特別な奇跡が起こるわけではない、限りなく平凡な日常です。しかし、普段は目に見えなくても、このイエス・キリストの栄光の光に天から照らされているのです。どうしたらいいのかわからない時、恐れのある時、神の愛する御子イエス・キリストに聞く、ということをいつも思い出しましょう。

「8がつ15にちは、にほんが せんそうに まけたひ です。せんそうで どちらが かつか、まけるか、きまるまでに たくさんのひとが くるしみました。

イエスさまのじだいに、じぶんはただしいことをしている とおもいこんで まわりのひとびとを きずつけたり くるしめているひとがいました。そういうひとは いばっていて、きびしいきまりごとを ひとにおしつけていました。そこにイエスさまが あらわれました。そして、きびしいきまりごとより たいせつなものがある とおしえてくださいました。それは こころをたいせつにすること。くるしいときは たすけあい、かなしいときは なぐさめあい、うれしいときは いっしょによろこぶ こころです。こんなイエスさまを、かみさまは「これは わたしのあいするこ。これに きけ」とおっしゃったのでした。」

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 マルコによる福音書 14章66節~72節

ユダの裏切りによって逮捕された主イエスは、大祭司の屋敷へと連行されました。

その数時間前、オリーブ山のゲツセマネに向かう途中、主イエスは弟子たちに29節「あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。ペトロは「わたしはつまずきません」と言い返します。しかし主イエスは30節「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、私のことを知らないと言うだろう」とお答えになりました。」

屋敷の中庭には、夜の闇に紛れて、少しでも主イエスに従い通そうとペトロがいました。ペトロは正体がばれて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われてしまうのです。屋敷の中でイエスがご自分のことをメシアであると言い表されたように、ペトロも堂々と「あの方こそメシアだ。自分はその弟子だ」と言えませんでした。「あなたはイエスの仲間だ」と言われたペトロは三度それを否定しました。ペトロの耳に鶏の鳴き声が聞こえました。ペトロはその瞬間泣き崩れました。「わたしはイエスの仲間ではない」と繰り返す醜い自分の姿まで、全て主イエスが見通していらっしゃったことを恥じたのです。

主イエスから声を掛けられた漁師シモンは、手にしていた網を捨て、家を離れ従いました。ペトロという名前がつけられ、一番弟子としてここまで主イエスと旅を続けてきました。8章29節「あなたは、メシアです」と告白したペトロが、71節「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言ってしまいました。

もし自分がペトロだったとしたら。どうでしょう「自分ならこんなこと言わないのに」と胸を張れる人がどれだけいるでしょうか。一人で入った大祭司の屋敷の中庭、その場を切り抜けるには「知らない」と言うしかありませんでした。

しかし、ここでペトロの信仰が終わったのではありません。すでに28節「わたしが復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と再開を約束されました。ペトロの自己嫌悪の涙は、回復への始まりでした。自分に絶望したところから、キリストとの歩みは始まります。2章17節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであるとおっしゃったとおりです。」

「ほんとうはしっているのに、しらないっていってしまうことってあるよね。ママのくちべにをつかってみたら、ポキッとおれちゃったことがあるの。びっくりして、そのままほうりだしてかくしたけど、みつかっちゃった。「なにをしたの?」ときかれても「しらない」といったけど、くちのまわりに くちべにがついていて すぐにばれちゃった。「おったのはわざとじゃないからゆるすけど、だまっていてはダメよ。」とママは おみとおしでした。

イエスさまもでしたちのことをなんでもおみとおし、「ぼくは どんなに こわいめにあってもまけないし、へっちゃら」と言っていたペトロさんに、「あなたは、にわとりが2どなくまえに 3どわたしをしらないというよ」といわれました。そして、やがてそのようになりました。でもイエスさまは そのペトロさんが たちなおるようにと いのってくださってもいました。」

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 マルコによる福音書 15章37節~39節

十字架の上で大声を出して息を引き取られたイエスを見て、そばに立っていたローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言いました。百人隊長は十字架の処刑の責任者でしたので、主イエスの十字架の最も近くにいた人ということになります。十字架で死んだキリストに向かって最初に信仰を告白したのが、その処刑責任者だったと聖書は伝えています。この人は、周りでイエスを侮辱していた群衆とは全く違うものをそこに見いだしました。

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