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お知らせ

2021年9月26日 教会学校礼拝9月聖書解説

(抜粋引用元:『季刊 教師の友 2021年7,8,9月』 日本キリスト教団出版局)

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マルコによる福音書 2章21節~22節

「招きに従った徴税人レビの家でイエスさまがお話しになった教えです。直前のレビの家での食事が背景にあります。18節「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」という、人々の質問への答えとして語られたものです。

 問題の断食は、律法の定める大切な業です。食を断ち、罪の悔い改めを示し、神さまに心を集中させて祈るのです。「贖罪日」(レビ記16章)と呼ばれる日には国をあげて断食が行われました。ですがヨハネの弟子やファリサイ派は日常的に週に二度の断食をしていたと言われます(ルカ18:12)。しかしイエスさまや弟子たちは断食を行いません。それどころか徴税人や罪人たちと楽しく食事をしています。それはいったいどういうわけか、というのです。イエスさまの答えは次の三つです。①結婚式に呼ばれた客は花婿がいるのに断食はしない(19節)、②古い服の穴を繕うのに新しい布は使わない(21節)、③新しいぶどう酒は古い革袋に入れない(22節)。そのうち、今日の箇所は②と③です。新しい布は水にさらすと縮むので、継ぎ当てとして使うと古い服を駄目にしてしまいます。また新しいぶどう酒は、新しい革の伸びる性質を活かして新しい革袋に入れて発酵させます。だからすでに伸びきった古い革袋に入れると革袋がぶどう酒の力に負けて破れてしまうのです。これらのたとえでイエスさまは、古いものと新しいものとでは釣り合いが取れないことを示しておられるのです。

 これらの例をとおして、イエスさまは、新しいものを受け取る時の姿勢について語っておられます。新しいもの、それはイエスさまご自身です。ヨハネの弟子もファリサイ派の人々も信仰熱心でした。自分たちの罪を悲しんで、神さまに悔い改めるために日常的に断食をしたのです。けれども、その罪を神さまの前に贖い、赦しを与えるために世に来られたのがイエスさまが一緒にいてくださるのですから、もう罪を悲しんで断食しなくても良いのです。むしろ赦されたことを喜べばいいのです。今、私たちは救い主イエスさまのおかげで、自分の罪に落ち込んだ時でも、「ああ、こんな私を救って神さまの子どもとして受け入れてくださるほどに私は愛されているのだ」と温かい気持ちの中で、神さまへの感謝をすることが赦されているのです。詩編130:6「わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして」旧約の民が待ち望んだ「朝」が主と共に来たのです。イエスさまを信じる人は、その救いの明るさの中を歩くのです。

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マルコによる福音書 4章21節~23節

 この「ともし火」とは油が入った器に、布を裂いて紐状に縒った芯の一方を浸し、他方の先端に火をつけるもので、ランプの一種です。昔はこのともし火が、夜にはもっとも頼りになる明かりだったのです。それを燭台の上に置くことで部屋は一層明るくなるのです。その火を消す時に用いたのが升です。ともし火は吹き消すと部屋中に煙が立ち込めます。それで大きめの升でランプごと覆って火を消したのです。ですから、ともし火を升の下に置くというのは、せっかくともした明かりを消してしまうということです。 また明かりを消さないにしても、寝台の下におけば、部屋は暗いままで、火をともした意味がありません。イエスさまは、「闇を照らす明かりは、その光が行き渡る燭台の上に置くものでしょう」と言っておられるのです。 興味深いのは21節「ともし火を持ってくる」が、原語では、「ともし火が来る」と、まるで火が歩いて来るような表現になっている点です。 実はマルコ1章を原語で見ると、これと同じ「来る」という言葉で、その動作の主語はイエスさまなのです。7節「わたしよりも優れた方が、後から来られる」、9節「イエスはガリラヤのナザレから来て」、14節「イエスはガリラヤへ行き」、24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか」、39節「ガリラヤ中の会堂に行き」も、全てともし火が「来る」と同じ語で主語はイエスさまです。つまり「ともし火」とはイエスさまご自身のことなのです。

 イエスさまが皆の前にご自分を表した時に言われた言葉は1章15節「神の国は近づいたでした。神の国とは、神さまが生きてお働き下さっている国のことです。それは私たちが生きているこの現実のただなかにあります。 罪が満ちる闇の世に、その神の国をもたらすためにともし火のイエスさまが来られました。ともし火が明るさをもたらして夜のひとときを支えるように、イエスさまは、ともし火となって私たちを支えて下さいます。その恵みが闇の中を生きる私たちを力づけるのです。 具体的に言えばその恵みとは、私たちの罪が贖われたこと、私たちが神さまの子とされ、御国の一員とされたことです。私たちはイエスさまと、語る御言葉を通してその事実を聞き、その事実に励まされて生きるのです。ヨハネ1章9節「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」お方だとあります。しかし同時に、世がその光を受け入れなかったとも言われます(11節)。世とは私たちのことです。

 イエスさまによって現わされた神さまの御心を退け、大切にできない私たちのことなのです。ともし火のイエスさまを升の下、寝台の下に置いてしまう私たちです。与えられている恵みを自ら手放す、何とももったいないことをする罪人のことです。 その私たちを神さまは憐れんで御子の命で救ってくださいました。だから23節「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われているのです。イエスさまの御言葉こそ私たちを生かす力です。

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マルコによる福音書 4章30節~32節

 からしの種は 大きさが一ミリくらいの小さな種です。それが成長すると二~五メートルまで枝や葉を伸ばします。32節「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」はじめの 姿からは想像もつかないほど大きくなるので、神の国が重ねられます。元々が小さい上に、たった一粒だったら人が気が付かない位です。しかし、神の国はこの小さい種から始まると言われるのです。先週の「ともしび」のたとえと同じように、この世に現れたイエスさまのことです。

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マルコによる福音書 4章28節~34節

『律法学者とイエスさまの対話です。同じ物語がマタイとルカにもあります。ルカでは、二人の対話が有名な「善いサマリア人のたとえ」へとつながります。またマタイとルカの律法学者は、イエスさまを「試す」(マタイ22:35、ルカ10:25)ために質問したのですが、マルコには「試す」という言葉はありません。イエスさまの答えを聞き、自分なりに答える律法学者の言葉にも、イエスさまへの批判めいた思いは見られません。直接のサドカイ派との28節「議論を聞いて」イエスさまに質問しているようすからも、「御心を知りたい」と真摯に願う純粋な人と見受けられます。彼の質問は「第一の掟はどれか」です。613もある掟の中でいちばん大切なものを尋ねています(ユダヤ教の伝統的な数え方で)。それに対してイエスさまは、29節「第一の掟は、これである」と語って申命記6章4~5節を引用し、続けて31節「第二の掟は、これである」と語ってレビ記19章18節を引用されています。28節「どれが第一でしょうか」との質問に、二つ目を答えていることにちぐはぐな印象を受けます。しかし、①誠心誠意神さまを愛すること。②隣人を自分のように愛すること。この二つは、切り離せないものだと言っておられるのです。律法学者もその答えに賛同します。さらに彼は隣人への愛の業は、焼き尽くす捧げものやいけにえを献げることよりも優るとも言っています(33節)。これは詩編51編18~19節「もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす捧げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません」や、ホセア書6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす捧げものではない」等で示される神さまの御心と重なります。この彼の答えを受けてイエスさまは34節「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。

この箇所は、他の箇所によくある律法学者対イエスさまという対立的な構図でないことは明らかです。また二人の対話は10章17節以下「金持ちの男」のものと似ています。しかし金持ちは答えを聞いて悲しくなりイエスさまのもとを去りますが、律法学者はそうではありません。

ただ、イエスさまの「神の国から遠くない」とのお言葉がどういう意味かが問題です。つまり「遠くない」を、近いとの意味に取れば、いま一歩足りないよとの不足の指摘にもとれます。実際に解釈が分かれるところです。

鍵はやはりイエスさまの宣教第一声にあると思います。1:16「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。世に来られた御子が「神の国は近づいた」と言うのです。そしてその方が「遠くない」と言われるのですから「近い」の意味でしょう。そして律法学者の御心を求める信仰とその彼自身をイエスさまは喜ばれているのだと思います。

イエスさまはすでにエルサレム入りしています。数日後には十字架におかかりになります。イエスさまは十字架で、第一の掟と第二の掟である神さまへの愛と隣人への愛に仕える姿を示され、皆の罪の贖いをし、神さまの国への道を開いてくださいます。「遠くない」とはその道への招きです。

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